山口県が生んだレジェンド田中絹代

田中絹代とは

田中 絹代(たなか きぬよ)は、今(いま)から約(やく)120年前(ねんまえ)に山口県(やまぐちけん)に生(う)まれました。14歳(さい)で映画女優(えいがじょゆう)としてデビューし、他界(たかい)する前年(ぜんねん)の66歳(さい)までの半世紀以上(はんせいきいじょう)、248作品(さくひん)もの映画(えいが)に出演(しゅつえん)し、高(たか)い演技力(えんぎりょく)から「ベルリン国際映画祭(こくさいえいがさい) シルバーベア最優秀女優賞(さいゆうしゅうじょゆうしょう)」を受賞(じゅしょう)するなど、世界的(せかいてき)に高(たか)く評価(ひょうか)された大女優(だいじょゆう)です。日本(にっぽん)の映画史(えいがし)に輝(かがや)かしい功績(こうせき)を残(のこ)しました。

絹代(きぬよ)が活躍(かつやく)したのは、まだ動画(どうが)に音(おと)がなかった「サイレントフィルム」の時代(じだい)から、「有声映画(ゆうせいえいが)(トーキー)」、「テレビドラマ」が黄金期(おうごんき)を迎(むか)えるまでの時代(じだい)です。
絹代(きぬよ)は様々(さまざま)な年齢(ねんれい)、様々(さまざま)な時代(じだい)の、様々(さまざま)な女性(じょせい)を生(い)き生(い)きと演(えん)じました。

 さらに映画人(えいがじん)として弛(たゆ)まぬ探究心(たんきゅうしん)から、6作品(さくひん)の映画監督(えいがかんとく)も手(て)がけました。絹代(きぬよ)は日本初(にっぽんはつ)の女優映画監督(じょゆうえいがかんとく)です。女性(じょせい)ならでは、女優ならではの視点(してん)で絹代が制作した映画は、近年もフランスの複数の大都市で上映されるなど、世界中の注目を集めています。

絹代(きぬよ)が活躍(かつやく)した時代(じだい)は、まだ女性(じょせい)が社会(しゃかい)に出(で)て自由に活躍することが許されなかった時代です。女性(じょせい)が就(つ)くことができる職業(しょくぎょう)はごく限(かぎ)られていました。
そのような時代(じだい)において、女性(じょせい)が映画監督(えいがかんとく)としてトップに立ち、男性(だんせい)が大半(たいはん)を占(し)める大勢(おおぜい)のスタッフたちをリードすることはとても画期的(かっきてき)なことでした。
多(おお)くの監督(かんとく)やスタッフ、俳優(はいゆう)に信頼(しんらい)され、数多(あまた)の作品(さくひん)に起用(きよう)されながら、絹代(きぬよ)は映画人(えいがにん)として輝(かが)かしいキャリアを築(きず)きました。
社会(しゃかい)で女性(じょせい)たちが自由(じゆう)に活躍(かつやく)する今日(こんにち)は、絹代(きぬよ)のようなかつての女性(じょせい)たちの数々(かずかず)の奮闘(ふんとう)や流(なが)した涙(なみだ)の礎(いしずえ)の上(うえ)に存在(そんざい)しています。

大正(たいしょう)と昭和(しょうわ)、二(ふた)つの時代(じだい)を、力強(ちからづよ)く生(い)きた田中 絹代(たなか きぬよ)の生涯(しょうがい)を紹介(しょうかい)します田中絹代(たなかきぬよ)の生涯(しょうがい)はまもなく公開(こうかい)します。今(いま)しばらくお待(ま)ちください。

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